不定期ながらなんだかんだ更新が続いておりますが
そろそろ溜めていたネタも枯渇しそうで、特に年明けからは更新速度が著しく落ちそうで・・・
さて、前々回にご紹介したラインゴルト客車の完成写真がこちら。
塗装における全工程を初のスプレー塗装ということで流石綺麗な仕上がりです。
ただ車両ごとに帯の色が明るかったり暗かったりという塗装のムラなるものがあります。いやしかしスプレー塗装本当コストかかるけど仕上がり綺麗だしいいですねコレ
奥に見えるのは随分前に完成していたルフトハンザ色の客車です。
ところでタイトルにもある「103」と聞いて皆さんは何を思い浮かべますでしょうか?
・・・まあ当然ながら、元国有鉄道、現西日本旅客鉄道所属の103系ですよね(涙)
東日本や東海ではJR世代の新しい電車が続々と開発、投入されていくなか
体質改善工事とかちょっとそこらへん理解してませんが、延命され、なお主力を担う西の103は鉄道ファンであれば1度はその形式の話を耳にすることでしょう。
プラレール界隈では学プラ会長の青ガマさんが103系好きでとても有名ですよね
さて、そんな"西の103"はもう一つ存在しています・・・いや、存在していました。
今回はそんな"もう一つの103"の製作をご報告。
客車が落成してからしばらくはその余韻に浸っていたんですがJOIN-Tの設立。
またプラレールひろばinきたもとの開催が決定したことで完成させないわけにはいかず。
しばらくこの状態で放置していましたが、いっきに完成を目指すことに。
こちらも客車と同じスプレーで塗装。
十分に乾くのを待ってからマスキングを一度はずし、再度帯を塗装。
それから放置する原因でもあった側面のラジエータを0.5mmプラ板から製作。
1年前とは変わってPカッターの使い方もだいぶ慣れてきたので、筋を入れてそれっぽく。
\ばああああん!!!/いや、ばああああんとか言われてもわかんねえよって人の為に解説を・・・
1965年に試作先行車両が登場し、1970年頃から量産型がデビュー。
当時の西ドイツ国鉄の看板列車であった「ラインゴルト」などのTEE牽引機としても運用されたほか、1971年からは全車1等車のインターシティ (IC) が運転を開始し、その牽引にも運用されるようになります。
この時代の西ドイツでは200km/h運転が可能な機関車は103型しかなく、またICEも開業していなかった当時、103型は名実共に西ドイツ国鉄を代表するフラッグシップ車両となり日本にも数多く紹介されて人気を集めました。(以上Wikiより抜粋)
約10年後には早くも後継機が登場しますが、まあこの後継機が使えない使えない(爆)
ということで、後継機が登場するまで103型は引退することができず、改良と延命を繰り返されました。
初登場から約30年、ようやく新型後継機が営業運転を開始し、時を同じくして103型の廃車が始まります。
後継機の登場やICEの登場・路線拡大により103型は次第に活躍の場を失っていく・・・はずでした。
1998年に発生したエシェデ事故によりICEが全面的な運休に追い込まれ、代替列車用に多数の牽引機が必要になったこと。
また2000年に行われた万国博覧会向けの臨時列車にも相当数の牽引機が必要になったこと。
さらには登場していた新型後継機の変圧器に欠陥が見つかり順次営業から離脱していったことなど
当機の退役が本格的に進んだのは2000年後半以降であり、最終的に定期営業運転を終了したのは2003年でした。 (以上Wikiより抜粋)
西日本の103が会社に翻弄され延命を続ける中、西ドイツの103は後継機に翻弄され延命され続けました。
が、その美しいスタイルや卓越した性能、そして華々しい活躍から「名機」「傑作」の誉れが高く、現役当時はもとより営業運転を終了した現在でも世界中で根強い人気があり、また一部のファンや関係者からは"伝説の老兵"と現在に語り継がれている機関車なのです。 (一部Wikiより抜粋)
と、まあそんな感じです(笑)
乗務員扉がないだとか、緩衝機がないとか、ラジエータは銀色じゃないか、とか塗装失敗してるじゃないか!ってのは、プラレールらしさと経年劣化の修繕後ってことで(
これまたえちごやさん、平塚君はじめ多くの皆様の完成を待つ声があったからこそ、こうして1年以上たって形にすることができました、本当にありがとうございます。