駆 動 輪 。

その脚を、ゆっくりと前へ。

VOYAGER〜日付のない墓標~

2022年2月4日 21時14分、祖父が息を引き取りました。

 

80歳でした。

 

 

 

 

 

家は代々、女系の家系でした。

 

昔ながらの仕来りが色濃く残る我が家において、8人兄妹の中で唯一の男だった祖父は両親や親族から将来の家長としての期待を押し付けられながら幼少期を過ごしたそうです。

 

故に生真面目、故に凝り性、故に心配性、故に気遣い上手でした。

 

結婚して3人の子供を授かり、うち一人が男ということで色々安堵したものの、その息子を事故で亡くしてしまい再び女系家族の中で男独りぼっちに。

 

先に結婚し嫁に出た次女の子供2人も女の子。いよいよ...といった時、長女のもとに婿が来て生まれたのが私でした。

 

『孫は目に入れても痛くない』とはよく言いますが、特に男の子で直系の孫にあたる私の誕生にはたいそう喜んだそうです。

 

私の誕生に合わせて超ヘビーとまで言われたタバコを禁煙し、働いていた娘(私の母)に対して『この子が小学校に入るまで働くな』と言って育児に専念させ、貧しい我が家において減った収入分を稼ぐために定年後も数年間働いた祖父。

 

休日には祖母と母を買い物に出し、その間に幼い私の手を引いて東海道線静鉄電車を見に清水駅や巴川沿いの親水公園へ連れて行ってくれました。

 

後に聞いた話だと、祖母と母を買い物に出すことで孫の私との時間を独り占めしていたそうです。なんて狡猾なんだ…(笑)

 

 

親戚の家を回るときも、少し離れた大きなお舟が浜辺に沈む公園へ行くときも、灯油を買いにガソリンスタンドへ行くときも、運転席の隣には祖母ではなく私を乗っけていた祖父。

 

私が幼稚園に持っていくカバンを作るためにミシンを動かした祖父。

 

ひっそり買い溜めしていたペヤングカップ焼きそば)を欲しがる私に、しぶしぶ譲る祖父。

 

父方の祖父母の家に遊びに行くときすら、自ら送迎をした祖父。

 

月曜日の夜は決まって私を布団に招き、一緒に水戸黄門を見てそのまま寝落ちした祖父。

 

そんな祖父が私に買い与えてくれた玩具の一つが”プラレール”でした。

 

最初は小さなレイアウトで満足していた私を見て満足していた祖父ですが、次第に私が『もっと線路を広げたい!』と我が儘を言いだすと、その度に近所のおもちゃ屋さんへ出かけてプラレールを買ってくる祖父。

 

決して多くない収入から得られる小遣いは雀の涙ほどだったにも関わらず、その殆どが私へのプラレール代になったといいます。

 

でも祖父は一度も躊躇わず、可愛い孫と一緒にプラレールで遊び、時にはつながらない線路に匙を投げた私に変わって唸りながら線路を繋げ、線路が足りなくなれば直ぐにおもちゃ屋さんへ行って買い足してまでレイアウトを作っていました。

 

 

そんな孫離れできず、祖父にべったりだった私を見かねた父が『このままでは大人になっても何もできない子になってしまう』と危惧して、まずは実家の近くのアパートに引っ越し。そして数年後には実家から車で1時間ほど離れた場所に引越しを決意。

 

父は祖父に対し『今考えたら、寂しい思いをさせてしまった…』と、後に語っていました。

 

それでも祖父離れできなかった私は、週末には電車とバスを乗り継いで一人で実家へ帰って、転校先の学校の話をしたり、逆に孫離れ出来ない祖父も、中学に入って陸上部で活躍する私を応援しにわざわざ大会に足を運んでくれるなど、距離が離れていても変わらぬ祖父孫関係に、ひとつの転機が訪れます。

 

 

プラレールのすべて(本)』と『迷列車を作ろう(動画)』。

 

 

改造プラレールという世界とプラレール運転会の存在を知り、後に雅さんの呼びかけからはじまった”プラレールひろばinちゅうおう”。

 

資材を持ち込むことになった第1回、第2.5回。当時15歳だった私に変わって清水から島田までの資材輸送をしてくれたのは祖父でした。

 

その後、プラレールひろばinちゅうおうが縁で東京の高校に進学した私。

 

気軽に会える距離ではなくなっても、年末年始とお盆以外にも帰れるときは必ず実家に顔を出すようにし、その度に東京での生活がどうだとか、昔テレビでみた番組の話がどうとか、他愛もない会話を交わしました。

 

祖父は人混みがあまり得意ではなく、プラレール運転会の会場まで来ることは殆どありませんでしたが、それでも私が一度だけ、強引に手を引っ張って会場いっぱいに広がった青いレールと集う仲間たちの姿を見て、色々思うところがあったのでしょう。

 

その時の祖父の嬉しそうな顔は今でも鮮明に覚えています。

 

以降は私が自立し資材輸送を自力で行えるようになったことで、運転会に顔を出すことはなくなりましたが、府中運転会の様子を見せると流石に興奮したのか、『ドライブがてら遊びに行きたい』と言っていました。

 

趣味だったドライブがてら埼玉に住んでいる両親の家に遊びに来たり、祖母と共に近場で旅行を楽しんでいた祖父でしたが、暫くして肝臓にガンが見つかりました。

 

手術もしましたが、がん細胞のすべてを取り切ることが出来ず、以降は通院しながら抗がん剤治療をする日々が続きました。

 

これまで以上に実家に顔を出すようにしようと思った私は、機会があれば必ず実家に顔を出すようにしました。

 

仕事が終わって静岡へ帰って休日を静岡で過ごし、そのまま出勤というハードな生活を送ることもしばしばありました。

 

大変でなかったと言えば嘘になります。

 

でも、ずっと可愛がってくれた祖父との時間を大切にしたかった私は、趣味で出かけた全国津々浦々の写真をもって祖父にその写真を自慢したり、逆に祖父が撮影した写真を自慢されたり...

 

祖母の軽度な認知症が発覚してからは、言った事をすぐに忘れる祖母に対して怒鳴ることもしばしばあったようですが、元より相性が良かった夫婦仲のおかげでそれが負担になることもなく、天気がいい日は毎朝一緒に散歩に出かけて、午前中にお風呂掃除を済ませ、祖母の分まで布団を敷くなど、自身も大変な身体なのに祖母の為に動いていたようで、一緒に住んでいる叔母もだいぶ助けられたといいます。

 

 

そんな折、世間では新型コロナウイルスが蔓延。

 

気軽に実家へ帰ることもできなくなり、私の所属部署が変わって今まで以上に忙しくなったこともあって清水へ帰る頻度は低下。

 

祖父の通院と祖母の介護のためという口実で、コロナウイルスの感染状況などを鑑みながら実家に帰ることもありましたが、その度にふっくらしていた祖父の顔がだんだんと痩せこけていくのが気がかりでした。

 

これも後に教えてもらったのですが、抗がん剤の副作用で味覚障害を患い、ご飯を食べたいと思わなくなっていたそうです。

 

2021年 夏、ガンの膵臓への転移が認められ、お医者さんから『年を越せるかどうか』と言われました。

 

膵臓ガンは胃ガンや大腸ガンに比べて死亡率が高いもの。

 

それはもう、覚悟しなくてはなりません。

 

しかし中々実家に帰ることが叶わず、それでも叔母から送られてくる近況では駐車場に新しい砂利を撒いた等、さほど心配なさそうな様子の祖父に安心と不安を募らせながら過ごしました。

 

 

 

年末年始、私は体調を崩し会社を休みました。

 

懸念だったコロナウイルスの陽性ではなくただの風邪だったこと。オミクロン株がまだ脅威を振るっていなかったこと。そして思ったより早く体調が回復したため、毎年正月に実家で行われていた親戚一同の新年会に参加することにした私。

 

約半年ぶりにあった祖父はいままでみたことないほどに痩せていましたが、久しぶりに孫の私の顔をみれたからか、明るい表情を見せてくれました。

 

挙句、『これなら部屋の中に臭いがこもらない』といってホームセンターで買ってきたジンギスカン用の鉄板で焼肉を始める始末。

 

味覚障害のために量こそ食べませんでしたが、『やっぱりみんなで食べると美味いなあ』と感傷に浸っていた祖父。

 

(年も越せたし、それだけ元気ならまだ大丈夫そうだな。)

 

そう安心して、東京に戻るときに『またね』と手を振った私。

 

それに答えて手を挙げた祖父。

 

これが最後に交わした言葉でした。

 

 

 

 

2月4日。

 

この日は昼過ぎに事務所をでてからずっと外回りで、事務所に戻ってきたのが24時少し前。

 

溜まっていたスマホの通知をチェックしていると、母からのLINEメッセージが複数。

 

そして『じいじ、亡くなったよ』の文字。

 

静かに動揺した私は上司にその旨を話し、翌朝の仕事を休ませてもらって実家に帰りました。

 

 

 

 

3日の午後に腹痛を訴えた祖父。

病院に着くと手足が痙攣しだし、そのまま入院することに。

全身の痛みに耐えながら、痰が絡んで呼吸しずらくなるからベッドで横になれず、男性看護師さんに身体をさすってもらいながら、祖母や叔母、かけつけた親戚の呼びかけに反応をみせてはいたものの、次第に意識が遠くなり、そしてそのまま息を引き取ったそうです。

 

 

新年会で見せた祖父の明るい表情は孫に心配をかけたくないという強がりだったのかな、と。

そして祖母や叔母に迷惑をかけまいと病院まで我慢したのかな、と。

 

どんな人にも気遣いを忘れない性格故に周囲に迷惑をかけまいと。

自身が心配性である故に周囲に心配させまいと。

 

思い返せば、祖父はそういう人でした。

 

 

 

 

6日に通夜、7日に告別式が行われました。

 

祖父の亡骸と対面しましたが、びっくりするくらい安らかな顔をしていて、本当にただ寝ているだけで今にもイビキが聞こえてきそうな、そんな顔をしていました。

 

こういうご時世で人を呼べないね…。ということで家族葬になりましたが、お店や周囲に気遣いしすぎて疲れるといって外食を嫌った祖父からすればちょうどよかったのかもしれません。

 

...というものの、実は町内の回覧板を呼んだご近所さんや親戚が続々と来式され、結果としてそこそこの人数で式が執り行われました。

 

ご来式された皆さんに挨拶していくと『あのお孫さん?!大きくなったねえ!あんなに小さかったのに!』と私に声をかけてくれる一方で、『先週も散歩してて挨拶してくれたからびっくりしたよ』『畑に行くのに車を出してくれて本当に助かったよ』などと話してくださいました。

 

こうして皆さんが急遽集まってくださったのも、祖父の人柄だったのかな…と思っています。

 

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告別式の日。上空には雲一つない青空が広がっていました。

 

別に祖父は方向音痴ではなかったのですが、これなら迷わずお天道様のところにいけそうです。

 

 

 

私の生涯において、言葉に表せないほど大きな存在だった祖父。

 

お酒は飲めない、ペヤングカップ焼きそば)が好き、タバコ大好き、ニンニクは嫌い、夏の日差しは大嫌い、偏食、人と交流するのは好き、でも気疲れしやすい、変なところで頑固etc......。

 

婿に来た父よりも、どちらかといえば祖父に似ていると母も笑っていました。

 

それだけ祖父に影響されてしまったんだな、と。

 

 

そんな祖父との別れは当然ながら悲しいものではありますし、告別式では溢れる涙と鼻水でマスクがびちょびちょになったわけですが、でも想像していたよりは割とつらいというわけではありません。

 

予てより成長した私の姿を、仕事中の私の姿を見てもらいたかったのですが、新型コロナウイルスの蔓延によって中々機会が得られず。

 

それでも、友人にお願いして10月に仕事中の私を撮影してもらい、その写真を1月の新年会で渡すことができたからかもしれません。

 

仕事中の私の写真を見た祖父照れ隠しで『顔が影っててちゃんと見えねえな』といいながらも、嬉しそうに写真立てを引っ張り出してきて写真を飾っていました。素直にほめてくれないところも祖父らしいと言えば祖父らしいのですが。(笑)

 

こういう言い方は陳腐かもしれませんが、本来であれば正月は仕事真っただ中で今年も実家に帰れないはずだった所を、体調を崩したことで正月が休みになって実家の新年会に参加できたと考えたら、それはきっと神様が『おじいちゃんに会いに行け』といって休ませてくれたのかもしれません。

 

でなければ写真を渡せず、もっと後悔していたことでしょう。

 

 

 

 

 

 

かつて幼かった頃の私を抱っこしてくれた祖父の遺骨を抱えながら

 

もう少し春が遠い、澄んだ冬の空を見上げ

 

これまでの感謝と、これからの未来を誓って

 

頬を伝う涙を拭った

 

 

 

 

じいじ、俺もじいじみたいなおじいちゃんになるよ

 

 

だから、それまで大好きなペヤング食べながら見守っててね